作品紹介
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作品紹介

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浅井忠 (あさい ちゅう) 『春畝』(しゅんぽ)

春畝 制作年 1888
寸法(タテ×ヨコ) 55.0×73.0
技法等 油彩
重要文化財
東京国立博物館

[情報]
浅井忠 (1856-1907)
佐倉藩士の長男として生まれ、藩校で儒教や武芸を学ぶかたわら13歳の頃から佐倉藩の南画家に花鳥画を学ぶ。上京後は工部美術学校に入学し西洋画を学ぶ。国粋主義の台頭を背景に工部美術学校は廃校に至り、1889年に開校した東京美術学校では西洋美術が排されたため、同年、工部美術学校出身の浅井らが中心となって明治美術会を設立する。
東京美術学校に西洋画科が設置された後は同校の教授に迎えられるが、翌年にはフランスへ留学。帰国後は京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授となり、安井曽太郎、梅原龍三郎らを指導することになる。
『春畝』は、土の香りの漂うのどかな農村風景を素直にとらえた浅井の初期の作品。

原田直次郎 (はらだ なおじろう) 『騎竜観音』

騎竜観音 制作年 1890
寸法(タテ×ヨコ) 272.0×181.0
技法等 油彩
重要文化財
護国寺蔵(東京国立近代美術館寄託)

[情報]
原田直次郎 (1863-1899)
開明的な父のもとで早くから外国語教育を受け、神田の東京外国語学校(旧外語)フランス語科を卒業する。11歳のころから洋画を学び、20才で高橋由一の門に入るが、21才でドイツへ渡り3年ほど遊学する。帰国した際の世情は洋画排斥の嵐のまっただ中にあった。明治美術会の活動に参加し、仲間とともに東京美術学校に洋画科を開設するよう運動する。36才で亡くなるまで洋画の啓蒙や振興に努めるも、黒田清輝らの外光派に対し旧派として批判されもする。
ドイツ遊学時に森鴎外と親交を深める。
『騎竜観音』は、油彩のもつ迫真的な描写を日本の伝統的な画題に適用しようと描いた意欲作。その主題や生々しい描写をめぐって、発表当時、大きな議論を巻き起こした。

黒田清輝 (くろだ せいき) 『湖畔』

湖畔 制作年 1897
寸法(タテ×ヨコ) 69×84.7
技法等 油彩
重要文化財
東京国立博物館黒田記念館

[情報]
黒田清輝 (1866-1924)
薩摩藩士の子として生まれる。東京外国語学校を経て、1884年から1893年まで渡仏。当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったが、パリで画家の山本芳翠や美術商の林忠正に出会い、渡仏2年目には画家に転向することを決意する。
帰国後、印象派の影響を取り入れた外光派と呼ばれる作風を確立させるが、黒田がフランスにいた時期はまだ印象派は正当な評価を得られておらず、黒田自身が印象派を真に理解し評価していたとは言い難い。
その新画風から黒田や周辺の画家たちは「新派」と呼ばれ、それ以前の、工部美術学校出身の洋画家たちは「旧派」とされ、当時のジャーナリズムは、その対比を旧派と新派の対立として扇動的に伝え、旧派が批判される状況も生じた。ただ、黒田自身は、こうした「新派」「旧派」といったレッテル貼りには批判的であり、確固たる構想を備えたコンポジション(構想画)が重要であると主張している。
帰朝した黒田は、まず新会員として明治美術会へ入会するするが、1896年には明治美術会から独立する形で白馬会を発足させる。また同年には東京美術学校の西洋画科の発足に際し指導者として迎えられ、西洋画の啓蒙とアカデミズムの確立という美術教育に深く関与する立場となり、以後の日本洋画の動向を決定づけ「近代洋画の父」と呼ばれる。その出自から後に貴族院議員に就任するなど、政府への人脈や影響力から一目置かれる存在であった。
『湖畔』は、外光派としての黒田のイメージを想起させる有名な作品。後の夫人をモデルにしたスケッチから出発した作品だが、本人は晩年に至っても「スケッチ」と「画」とを明確に区別し、「スケッチ」の域を脱して「画」を描きたいと願っていた。

黒田清輝 (くろだ せいき) 『智・感・情』

智・感・情 制作年 1897
寸法(タテ×ヨコ) 3×180.6×99.8
技法等 油彩
重要文化財
東京国立博物館黒田記念館

[情報]
黒田清輝 (1866-1924)
『湖畔』の項を合わせて参照。
画家たちでさえ裸体画に対しては躊躇し、裸体画に対する官憲の取締も厳しかった当時、黒田は国際的な視野から、日本の美術界の将来のために裸体画の必要性を確固として主張し、美術教育の場でも奨励した。
『智・感・情』は、女性裸体像を用いて抽象的な概念を表した寓意画で、黒田の目指した構想画への取り組みの一つ。

藤島武二 (ふじしま たけじ) 『天平の面影』

天平の面影 制作年 1902
寸法(タテ×ヨコ) 197.5×94.0
技法等 油彩
重要文化財
ブリヂストン美術館

[情報]
藤島武二 (1867-1943)
薩摩藩士の家に生まれる。はじめは日本画を学ぶが、のち24歳のときに洋画に転向。1896年、東京美術学校西洋画科開設にあたって1歳年上の黒田清輝の推薦で助教授に推され、以後、没するまでの半世紀近くにわたり日本の洋画壇において指導的役割を果たしてきた。1905年から4年間、フランス、イタリアで学ぶ。ロマン主義的な作風の作品を多く残している。
『天平の面影』は、ヨーロッパ留学へと旅立つ2年前の藤島初期の代表作。

青木繁 (あおき しげる) 『海の幸』

海の幸 制作年 1904
寸法(タテ×ヨコ) 70.2×182.0
技法等 油彩
重要文化財
ブリヂストン美術館

[情報]
青木繁 (1882-1911)

旧有馬藩士の長男として生まれる。1900年、東京美術学校西洋画科選科に入学し、黒田清輝から指導を受ける。明治期日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家。
若くして日本美術史上に残る二つの名作を次々と描き上げるものの、以後は展覧会への入選もかなわず、放浪のうちに28歳の短い生涯を終えた。
同じ久留米生まれの洋画家坂本繁二郎は同年で小学校の同級生でもあり、終生に渡って交流があった。
『海の幸』は、明治期洋画の記念碑的作品と評されている。1904年夏、東京美術学校を卒業したばかりの青木と、坂本や画塾の生徒で繁の恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良(めら)に滞在したときに描かれたもので、画中人物のうちただ1人鑑賞者と視線を合わせている人物のモデルは福田たねだとされている。

青木繁 (あおき しげる) 『わだつみのいろこの宮』

わだつみのいろこの宮 制作年 1907
寸法(タテ×ヨコ) 180.0×68.3
技法等 油彩
重要文化財
ブリヂストン美術館

[情報]
青木繁 (1882-1911)
『海の幸』の項を合わせて参照。
『わだつみのいろこの宮』は、『古事記』の物語の一場面、なくした釣り針をさがして海底へと降りていった山幸彦が、海神の娘豊玉姫に出会う場面が描かれている。青木はこの作品を、自身の渾身の傑作と自負があったらしく、その自負に反して三等賞という結果に対して深く落胆・憤慨し、美術雑誌に当時の画壇の後進性・閉鎖性を厳しく口を極めて非難している。

藤島武二 (ふじしま たけじ) 『黒扇』

黒扇 制作年 1908
寸法(タテ×ヨコ) 63×40.8
技法等 油彩
重要文化財
ブリヂストン美術館

[情報]
藤島武二 (1867-1943)
『天平の面影』の項を合わせて参照。
『黒扇』は、一度は石橋正二郎に散逸するのを恐れて「黒扇」など滞欧期の作品15点をまとめて買い取ってもらったが、3日ほどであの絵がないと寂しくて寝られないから返してもらった、という逸話が残っている。その1年後、再び石橋の手に戻り、ブリヂストン美術館に収められた。

岸田劉生 (きしだ りゅうせい) 『道路と土手と塀(切通之写生)』

道路と土手と塀(切通之写生) 制作年 1915
寸法(タテ×ヨコ) 56.0×53.0
技法等 油彩
重要文化財
東京国立近代美術館

[情報]
岸田劉生 (1891-1929)
白馬会洋画研究所で黒田清輝に師事する。雑誌『白樺』の影響を受け、武者小路実篤、柳宗悦、英国の陶芸家バーナード・リーチらと交友を重ねる。セザンヌやゴッホの影響色濃い作風を経て、次第に事物の奥に内在する美を表現しようとする態度へと変る。その規範となったのが、デューラーやファン・エイクら、北方ルネサンスの巨匠たちの精緻な写実描写だった。中川一政らと草土社を結成し、大正期の美術界の一大勢力となった。風景・静物画の他、娘麗子の肖像画シリーズで独自の画境を開いた。
『道路と土手と塀(切通之写生)』は、劉生がその独自の写実様式を確立した作品で、彼の風景画の代表作でもある。手前の道は盛り上がり、うねりながら、圧倒的な迫力と重量感をもって空へと登っていき、ぐいと空を突き刺すような石垣。壁面右には、雑草が茂る小高い土手。そして、どこまでも青く澄んだ空。日常の場面を様々な角度で切り取り、執拗なまでに緻密な加工を加えて再構築する。その画面は見る人に鮮烈な印象を与えずにおかない。

金山平三 (かなやま へいぞう) 『夏の内海』

夏の内海 制作年 1916
寸法(タテ×ヨコ) 87.0×114.0
技法等 油彩
東京国立近代美術館

[情報]
金山平三 (1883-1964)
優れた色彩表現と安定した画面構成によって、日本の風景を卓越した技法で描いた画家。東京美術学校で黒田清輝の指導を受け、同校の卒業後に渡欧し、パリを拠点にヨーロッパ各地の美術館を見て歩くほか、気にいった土地に滞在して制作に励む。4 年後帰国し、高い技術に裏打ちされた密度の濃い絵画に高い評価を得るが、昭和10(1935)年から翌年にかけて起こった美術界への政治の介入が転機となり、以後は中央画壇と一定の距離を保ち、孤高の道を歩む。写生旅行に基づいた、情感あふれる筆致で描いた澄明な風景画を多く残している。
『夏の内海』は、ヨーロッパから帰国後、1916(大正5)年の第10回文部省美術展覧会(文展)で特選となった作品。

小出楢重 (こいで ならしげ) 『Nの家族』

Nの家族 制作年 1919
寸法(タテ×ヨコ) 79×91
技法等 油彩
重要文化財
大原美術館

[情報]
小出楢重 (1887-1931)
大阪生まれ。東京美術学校西洋画科を受験したものの不合格、日本画科への編入を許されて入学する。下村観山の指導を受けるが、のち洋画に転向。岸田劉生や中村彝らと同時代を生き、黒田清輝以来主流となっていた白馬会系の当時の洋画壇に飽きたらず、単なる洋画の輸入ではなく日本独自の油絵を確立しようと努めた画家の一人。昭和前期の洋画界に新風を送り込み、若手の先駆者となった。
『Nの家族』は、有望な新人に与えられる樗牛賞を贈られ、それまで不遇であった画家が画壇に地歩を築くきっかけとなった作品。

中村彝 (なかむら つね) 『エロシェンコ像』

エロシェンコ像 制作年 1920
寸法(タテ×ヨコ) 45.5×42.0
技法等 油彩
東京国立近代美術館

[情報]
中村彝 (1887-1924)
軍人を志して名古屋幼年学校に入学したが、胸部疾患をえて退学。療養中に洋画家を志し、1906(明治39)上京して白馬会研究所に入る。1919年帝国美術院推薦となり、翌年「エロシェンコ氏の像」を帝展に出品し、世の絶賛をえる。1921年以降療養に主眼をおきながら制作を続け、しだいにルノアール風の画境を脱し、むしろセザンヌの影響の認められる幾何学的構成を探求したが、その完成をみることなく37歳で病没した。
『エロシェンコ像』は、当時傾倒していたルノワールの作風を思わせる柔らかい筆づかいが特徴的な作品で、色彩は黄褐色系のごく少ない色数だけで描かれている。薄く溶いた絵具を含んだ絵筆を柔らかく使って、モデルを的確に写すと同時に画面に穏やかな、しかし生気ある韻律を与えている。近代日本の肖像画の傑作。

岸田劉生 (きしだ りゅうせい) 『麗子(れいこ)』

麗子(れいこ) 制作年 1921
寸法(タテ×ヨコ) 44.2×36.4
技法等 油彩
東京国立博物館

[情報]
岸田劉生 (1891-1929)
岸田は、生涯に長女麗子の肖像画を50点あまり描きました。麗子4歳の時から本格的に描きはじめられた肖像は、麗子の成長、岸田の画風の変化をしめすものとなっています。
『黒船屋』麗子像はあまりにも有名。。のモデルは、彦乃説、お葉説がある。数々の女性遍歴で浮き名を流した夢二ではあったが、彦乃との別離とその死を経て、彦乃は夢二にとって永遠の恋人となった。

藤田嗣治 (ふじた つぐはる) 『寝室の裸婦キキ』

寝室の裸婦キキ 制作年 1922
寸法(タテ×ヨコ) 130×195
技法等 油彩
パリ市立近代美術館

[情報]
藤田嗣治 (1886-1968)
戦前よりフランスのパリで活動、「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴び、エコール・ド・パリの代表的な画家となった。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ。
父親は森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。親族には軍部、政界、経済界、学界関係の著名人が多く、当時の支配階級の出自といえる。森鴎外の薦めもあって1905年に東京美術学校西洋画科に入学するが、当時隆盛だった黒田清輝らとはそりが合わなかった模様。パリでは後に美術界を変革する新進の画家たちと交友し、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた薩摩治郎八はパトロンとして藤田の経済的支えとなった。
第二次世界大戦の前後には日本に帰国し、戦争画の製作を手がけたりもするが、敗戦後は戦争協力に対する批判に嫌気が差して日本を去った。
『寝室の裸婦キキ』は、マン・レイの愛人であったキキを描いた作品で、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こした。パリで絵画の自由さ、奔放さに魅せられ、黒田流の絵画教育と決別した藤田は、面相筆による線描を生かした独自の技法を駆使し、独特の透きとおるような乳白色の画風を確立した。

国吉康雄 (くによし やすお) 『力強い女と子供』

力強い女と子供 制作年 1925
寸法(タテ×ヨコ) 145.4×114.0
技法等 油彩
重要文化財
スミソニアン アメリカン アート美術館

[情報]
国吉康雄 (1889-1953)
1918年、京都市立絵画専門学校の同窓であった土田麦僊、小野竹喬らの若手日本画家とともに国画創作協会を設立する。これは、文展の審査のあり方に疑問を抱いた若い画家たちが、西洋美術と東洋美術の融合による新たな絵画の創造を目ざして旗揚げしたもので、近代日本画革新運動の重要な足跡として、美術史上に特筆されている。
『裸婦図』への本人談、「私はその眼に観音や観自在菩薩の清浄さを表わそうと努めると同時に、その乳房のふくらみにも同じ清浄さをもたせたいと願ったのである。それは肉であると同時に霊であるものの美しさ、髪にも口にも、まさに腕にも足にも、あらゆる諸徳を具えた調和の美しさを描こうとした、それが私の意味する『久遠の女性』である。」
日本画の一つの到達点なのでしょう。