日本の伝統画
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展示案内

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鳥獣人物戯画(部分) 12世紀 作者不詳

日本絵画の形成期、もちろん展覧会などはなく、鑑賞の機会は特定の人物や階層、特定のタイミングに限定されていたに違いないが、いつの時代でも見る人がいる限り描く人がいる。絵巻物、山水画、仏画等々に、現在まで受け継がれることになった逸品が存在している。もしかしたら、消失してしまったとしても、墨絵であれば案外、世俗にとっても身近だったかもしれない。

「日本画」が「西洋画」の対立概念から生まれた言葉であったように、その当時「大和絵」は中国の「唐絵」に対しての呼称として用いられたようだ。ただ、最初は日本的な主題を扱うという意味合いのものであり、日本独自の絵画様式に基づく大和絵が出現するのは平安時代も中ごろ、国力の衰えた唐の影響を脱した、いわゆる国風文化が栄えた頃と推量されている。この時代に代表される大和絵として、平安時代末期に制作された源氏物語絵巻(源氏物語とは制作を異にする)や鳥獣人物戯画などの絵巻物がある。絵巻物は鎌倉時代には質・量ともに全盛し、その頃には写実的な肖像画なども盛んに描かれている。

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日月山水図(じつげつさんすいず) 15世紀 作者不詳
室町時代には洛中洛外図も制作され、土佐派などの名門流派によって多くの大和絵の作品が、公家や武家、寺社などへ納められている。土佐派は、この大和絵の様式を、伝統的絵画様式として近代まで引き継ぐ役割を担うことになる。

一方、鎌倉時代から室町時代にかけては、中国の宋(そう)・元(げん)代の新しい中国絵画、とりわけ水墨画の影響による新たな唐絵(漢画)が流通してくる。その流れに乗って台頭したのが狩野派で、戦国・安土桃山時代に入ると、障壁画隆盛の桃山文化と基調を合わせるように大躍進を遂げることとなる。狩野派は、その過程において伝統的な大和絵と漢画を統合して狩野派様式を築きあげるとともに、時々の権力者と結びつき画壇の地位を確固たるものとする。そして天下人お抱えの専門画家集団として、江戸時代の終わりまでの約4世紀の長期にわたって日本の画壇に君臨する。

この狩野派に果敢に挑んだのが琳派の系譜に連なる画家たちだ。琳派という呼称は後の世のもので、彼らに直接的な師弟関係が必ずしもあるわけではない。しかし、意識的に作風を継承しながらその画境までも受け継ぎ、一貫性を持った流派のようにそれぞれの時代において凛然たる存在感を示している。その特徴は、豊かな装飾性やデザイン性、絵画を中心として書や工芸を統括する総合性であり、さらに新しい表現にもつながる開放的な精神性といった側面も指摘することができる。

江戸時代には、さらに明(みん)・清(しん)代の中国絵画が紹介され、京都の画家たちの間で文人画(南画)や写生画の新たな作風が試みられた。京都ルネッサンスとも呼ばれるこの時代、日本的な南画が大成し、奇想の画家が活躍する。また、写生の技術を基礎としつつ卓越した画技と平明で親しみやすい画風を創造した円山・四条派が登場し、その後の京都画壇の礎となっていく。

江戸の町では、絵画を鑑賞する楽しみが庶民層にまで広がってきていた。そんな世相を背景にして浮世絵が出現する。浮世絵は、江戸時代の江戸で発達した庶民的な絵画だ。当初は肉筆画で描かれることも多かったが、木版技法を有効に活用し、多色摺の版画、錦絵が誕生して以降は大きな発展を遂げることになる。

当時の「浮世」としては、遊里と芝居という二つの悪所(あくしよ)(悪所場(あくしよば))が代表的な存在だった。こうした悪所が芸術の土壌となることは周知の事実だが、浮世絵などはその最たるものであり、浮世絵が、遊女や芸者を主人公とする美人画と歌舞伎役者を描く役者絵を二本柱として展開したのも当然の成り行きだった。

ところで、浮世絵の主要なジャンルの中に春画がある。春画のイメージの先行や偏見は浮世絵の芸術としての価値にも影響を及ぼすところだが、浮世絵の巨匠たちのほとんどが春画を描いているという事実を無視することはできない。春画は浮世絵発展の下支えとして、世界的に認められることになった多彩な表現力と質、豊かな創造性などの評価に寄与してきたことは間違いない。

伝統絵画 (15世紀 - 19世紀)
大和絵、狩野派、琳派、南画、円山派、四条派、奇想派、浮世絵。京に、江戸に多様で豊かな日本の絵画が展開する。時代は人によって作られる。彼らはどのように歴史を彩ったのか。彼らが表現したものとは。

名画展覧
日本の伝統画の至宝を展覧あれ。

若冲 動植綵絵
1757年から1766年頃にかけての時期に制作された。30幅からなる動植物を描いた彩色画。三の丸尚蔵館蔵。
鳥、鳳凰、草花、魚介類などが、綿密な写生に基づき、さまざまな色彩と形態で活き活きと華麗に描かれている。

北斎 富嶽三十六景
1831年頃から1835年頃にかけて刊行された。発表当時の北斎は72歳と晩年に入っているがその意気衰えず。
このシリーズの商業的成功により、名所絵が役者絵や美人画と並ぶジャンルとして確立する。当初は名前の通り36枚で終結する予定であったが、作品が人気を集めたため追加で10枚が発表され、計46枚になった。追加の10枚の作品を「裏富士」と呼ぶ。

※展示作品は定期的に見直し・追加していきます。
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